泡沫の書き置き

Twitterの延長

歌手としての内田彩さんが好き。

内田彩さん(以下「うっちー」という。)は可愛い。惚れ惚れするような美貌をもってるわけじゃないけど、仕草とか、喋りかたが強い。可愛さ的意味で。やや失礼かもしれないが、少し可愛いくらいがいちばん可愛いとは正にうっちーのことだと思っている。

これまた偉そうな物言いになるが、声優としての能力も非常に高い。声優が評価される主な理由には概して、当然①表現力が高いというのはあるが、他に②たくさんの声音を使い分けられる、③特徴的な声を持つ、というのがあると思う。うっちーは兼ね備えるのが難しい(と個人的に思っている)②と③を併せ持っている。南ことりの脳トロボイスでアディクテッドした諸氏がかばんちゃんの声を聴いて驚いたことも多いに違いない。

 

だがしかし、ぼくが歌手としてのうっちーを好きなのは、けして可愛いからでも声優としてのうっちーが好きだからでもない。また、曲もめっちゃいいのだが、それだけではない。

おとといと昨日の深夜、AbemaTVで無料配信されていたうっちーの武道館ライブを見た。Abema is God. 

ぼくはそれを見、一年前の武道館の光景を思い出しながら、うっちーが会場を創造している、と感じた。中心であったどころの話ではない。

アニソンライブにおいて、ライブは演者が中心になりつつ観客とともに作るものだ、という観念は広く広まっているものだと思う。曲の途中で合いの手・コールを、ふつうのj-popやバンドのライブに比べて大胆に取り入れているのがその例だ。

うっちーのライブでも、コールは入る。しかし、その雰囲気は、全く世間のアニソンライブとは違うように思えた。観客が生み出すものとうっちーの生み出すものはない交ぜにならず、観客のそれを内包し、あるいは掻き消し、うっちーの何かが存在している。

 

それは世界だった。うっちーの生み出す世界。

 

うっちーは、それぞれの曲のなかに生きている。曲が変わるたび、別のうっちーがでてくる。曲のなかに入り込み、そのなかの登場人物になり、表現する力...それは、うっちーの声優として積み重ねた"声優力"の発露である。うっちーはステージの上で、曲の世界を創り上げ、会場を飲み込んでいるのだ。

僕がうっちーを好きなのは、まさにそれゆえなのだ。

 

「笑わないで」という曲がある。失恋の歌だ。

笑わないで 笑わないで そんなに無邪気に笑わないで

笑わないで 笑わないで いたずらっ子みたいに笑わないで

これ以上 好きになりたくない 

キミはあの子のものだもん  

笑わないで 内田彩 - 歌詞タイム より引用

 この曲を歌ううっちーを見て、もんのすごいなと思った。うっちーは、「笑わないで」と歌っているのではなかった。「笑わないで」と言っていた。「笑わないで」と心のそこから思っていたそして、ぼくまでもが「笑わないで」と思った。

うっちーの世界が会場をつつむと言ったのはこのことだ。うっちーが曲を歌っているとき、ただ歌っているだけでないのと同様に、ぼくもまた、ただ聴いていただけではなかった。「笑わないで」を歌ううっちーを見ながら、ぼくは恋する少女になり、彼に笑わないでと思っているような気がしていた。ぼくは、曲の創る世界に、うっちーの創る世界に投げ入れられたのだ。

 

武道館コンプリートライブのテーマはCOLORSだった。それは、この世界の多様性だけじゃなく、うっちーが秘めるカラフルさも意味していたと今になって思う。

可愛い、曲がいい、歌が上手い。でもそれだけじゃない。歌唱力だけではたどり着けない域の表現力。曲の世界を生み出す創造者であり、曲の世界を伝える媒介者であり、ライブ会場のステージ上で神に近づくかのような、歌手のうっちーが好き。