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泡沫の書き置き

文才のない学生がTwitterの延長感覚で書くやつです。そゆこと。

けものフレンズ最終話を見た感想とテレビアニメの未来を憂う話。

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けものフレンズは神アニメである。

という感想を決して他人に押し付けることはしない。だけどぼくはそう思った。

最近はそもそもアニメを見なくなっているがけもフレは流行っているがゆえ興味があり、先日ニコニコ動画で生放送をやったのをきっかけに視聴して驚いた。面白い。twitterのTLを見て11話までのあらすじを知っているのに、ドキドキワクワクしながら見れるなんてそんなアニメ知らない。

そして最終話は熱い展開、王道ハッピーエンドをけもフレらしく再現し、爽快な結びになっている。

 

けものフレンズの魅力を語りたい。

けものフレンズというと、3,4話放送の前後で爆発的なブームを見た記憶がある。最初にバズったであろうツイートは、サーバルがバスに轢かれるシーンが意味不明すぎて笑ったみたいなやつだったと思う。あの意味不明さ、あれは確かに魅力だ。どこか笑えるから。1~3話はこの意味不明さに包まれている。冒頭3分ほどのサーバルちゃんが草原を滑るシーンがまずわけがわからない。でもそれが良いのだ。

また、1話の前半には、かばんちゃんの「た...」や「いえ、はい」といった他のアニメではなかなか見られない表現がある。これはアフレコの仕方に秘密があるようだ。アニメにおいては動くシーンに声をあてる手法が一般的だが、けものフレンズでは場面のイメージ画がまず与えられ、そこに合うセリフを声優が考えながらレコーディングする⇒アニメーションが作られる、という順序らしい(3/28の「さしめし」の尾崎さんと内田さんのトークより)。

この方法によって会話が自然になり、またニコニコ動画でネタになるような上記のセリフや、コピペで有名「ふわああぁ!いらっしゃぁい!よぉこそぉ↑ジャパリカフェへ~!どうぞどうぞ!ゆっぐりしてってぇ!いやま゛っ↓てたよぉ!やっとお客さんが来てくれたゆぉ!嬉しいなあ!ねえなんにぃのんむぅ 色々あるよぉ、これね、紅茶って言うんだってぇハ↓カセに教えてもらったンの!ここからお湯が出るからそれを使ってにぇ」の名ゼリフが誕生した...のかもしれない。

 

そこから話数を重ねると、別の魅力が突然立ち現れる。4話のバイパスのシーンを思い起こしてほしい。あの瞬間に初めて明確に人工の巨大構造物が見える。そう、かばんちゃんとサーバルちゃんが今まで旅をした世界は、人類が過去存在していたのに、その人類がいなくなってフレンズのみが地を駆け空を飛び海を泳ぐ世界だったのだ。この退廃的な雰囲気が第二の魅力であると言える。

余談になるが、ぼくは荒廃し滅びゆく世界を旅するみたいなシチュエーションが大大大好物だ。もし好みを同じくする人がいれば、ぜひ『旅に出よう、滅びゆく世界の果てまで』とか読んでみるのも良いと思う。

 

さらに10話を回り、物語が佳境にさしかかると、異様な雰囲気が漂い始める。過去のセルリアンによるパークの滅亡の危機が語られはじめ、同時にセルリアンの出現数が増えてその方法も異常なものになっていく。それなのに、フレンズは1話とほとんど変わらないのほほーんとしたやりとりを繰り返すし、セルリアンに対峙しても対策を講じることはあれど人のように死に直面し動転するようなことは一切ない。

ゆるく温かいこの世界にセルリアンやフレンズの消滅、あるいは文明の終末という異質なものが紛れているギャップによって、物語の盛り上がりは一層際立てられている。これもまた魅力である。

つまり、

 これに尽きる。

 

さて、感想を締めたところで2つ目の話題に移ろう。アニメの未来の話だ。

トーリーがクライマックスに近づいて(10話あたり)から最終話までの間、かなり異様な光景が見られたと思う。連日タイムラインに載せられる妄想エンディング漫画や、ニコニコ動画における「たつき監督を信じろ」等の文字列だ。

いや、それ自体は必ずしも悪いものではないのだが。分かりやすく言おう。

アニメは他の創作物とは違う側面を持っている。ドラマにも共通していることだ。週刊連載の漫画にも当てはまるかもしれない。

"アニメは十数話に分割され、週単位で放送される"

これ自体は当たり前のことのようだが、他の創作と比べるとかなり特殊と分かる。絵画はキャンバスの上に描かれたものがすべてだし、音楽を敢えて途中で止めて鑑賞することは普通ないし、映画も見始めて終わるまでに区切りは設けられない。小説も然り。この特殊性によって、テレビアニメは常に崖の上に立たされている。

"見る側の主観が途中に挟まれることの不可避という危機"

これに他ならない。

僕達は今日のアニメを見終えたとき、次週の展開に想いを馳せることを止められない。その過程で、僕らは自分の手で勝手に物語を紡いでしまうのだ。これが良くない。自分の手で紡いだ物語は限りなく「自分の理想」に近い。作品が終わっていない段階でこれが生まれると、それに捕らわれて「作者の伝えたいもの」に目が向かず、作品の評価を捻じ曲げてしまうからだ。

この「自分の理想」の具現化こそ二次創作妄想エンディングだと僕は思う。こうして「誰かの理想」を見続けていると、元の作品への解釈が歪んでしまいそうではないろうか。

加えて、これが横行しすぎると、「大衆の理想」に沿った展開やストーリーの作品だけが評価され、作者の自由な創作が阻まれかねない。なんと恐ろしいことだろうか?

 

だが、現代社会においてはこれ以上の危機が存在する。

"作者の意図さえもが見る側に変えられる可能性" だ。

美術の授業中に、「そこはもっと○○したほうがいいよ」とか言われると反抗したくなったりする人はいるだろう。それは自分のやり方、表現を曲げたくないからではないだろうか。

いや、表現方法の指図ならまだよい。それでより良い作品になりうるから。では、作文を見せたあとで「もっとこういうこと書いたら?」と言われるのはどうだろう。これは、「伝えたいこと」の捏造・改変にあたっているのではないか。こうなるともはや作品は作者の手を離れ、宙ぶらりんの、何の想いもこもっていないものになってしまわないか。

僕が戦慄したのは、けものフレンズにおいても同じことが、誰の意図でないにも関わらず起きかねなかったことだ。最終話直前のニコニコ動画けものフレンズ1話コメントには、「ハッピーエンドであってくれ」に類するコメントがいくつかあった。

少し前なら、これは呟きや祈りとして受け取れただろう。しかし、今は異なる側面も持つことがある。作者へのメッセージとしてだ。制作途中の監督がこのコメントを見たとき、きっと監督は「それに従うべきか?」という疑問にぶつかると思われる。もしそのまま見る側の要求に感化され作品を変えたなら、そのとき前述の現象は起こってしまう。

特に、たつき監督は放映中から外部に出てくることが多かったし。しかも現代はTwitterなどのSNSやネットワークによって情報の同時性が高まっていて、見る側の主張がとても早く作者に届くし。このコメントをたつき監督が見て完成した最終話を修正することがあるんじゃないかとか考えてしまって、僕は怖かったです。

まぁ、作者は自分の作品に信念を持っているからそれは杞憂だと言われればその通りだし、そもそもアニメってもっと早く完成するから見る側の意見が入り込む余地はないぜと言われたなら僕はもうぐぅの音も出ないけれど。ただ、見る側の好みや傾向や流行りに流されて「作者の伝えたいこと」が削がれるのはあってはならないとだけ主張したい。

 

まとめる。

昨今のアニメの視聴者は、作品に自分の好みを求める傾向が強い気がする。最終話間近によく聞く「バットエンドだったら神アニメ」みたいなのがその最たる例だ。そして、そのほうがウケが良かったりする。

だがしかし、それに従うあまりに伝えたいことを見失ってはならない。

そしてそれ以前に、僕ら視聴者が、正しく作品を評価せねばならない。僕が先に述べた性質"アニメは十数話に分割され、週単位で放送される"によって、今日「n話切り」という単語は見慣れたものになってしまったが、「n話まで見たけどクソだったよ」などという評価は不当だ。作品評価ですらない。

アニメは1クール(2クールアニメなら2クール)で最終話まで見て初めてその作品なのであって、全体から一部を切り取ってしまえばそれが不完全なのは必然だ。けものフレンズ1話が意味不明なのも当たり前といえば当たり前なのだ(ただしけものフレンズにはそれとは違う意味不明さがあると思うけど)。

全てを見ずして評価を下すのは止めにしないか。「正しく下された評価」を評価しないか。作品を見て下された評価ならNOでもYESでも価値はある。自分の思い込みを取り除き、結末を見届けてから評価しよう。アニメを制作している人が自由に創作できるかどうかは、正にぼくらの行動にかかっている。

 

最後に。

とはいえ、僕は正しく評価しない人を排外しようとも詰ろうとも思わない。むしろ受け入れて見せよう。

サーバルちゃんならきっと言うだろう。

「大丈夫!フレンズによって得意なことはちがうから!」

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